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ツァイス・イコンとは・・・

 
今日、わが国のクラシックカメラ市場で最も人気の高いのは、日本製カメラを別とすれば、やはりドイツ製のカメラです。

ひと口にドイツ製カメラといっても、ほとんど数えきれないほどの種類がありますが、その中でやはり群を抜いて人気があるのは、
ライカと一群のツァイス・イコン製カメラです。

ライカは基本的に1925-1970年のスクリューマウントのいわゆるバルナック・ライカと、1954年以降現在に至るバヨネットマウントのMライカ、それに1962年以降現在まで続く一眼レフのRライカの3種しかなく、それぞれに発展の段階で生まれたバリエーションがあるだけです。

これに対しツァイス・イコンには初期のハンドカメラから始まって、
イコンタ/スーパーイコンタ/ネッターなどのスプリングカメラ、
コンタックス/スーパーネッテル/ネタックスなどの35mmフォーカルプレーンシャッターカメラ、
テナックス/イコンタ35/コンテッサ35などの35mmレンズシャッターカメラ、
6×6cm二眼レフのイコフレックス、
35mmレンズシャッター一眼レフのコンタフレックス、
35mmフォーカルプレーンシャッター一眼レフのコンタレックス、
ボックスカメラのボックステンゴールなど、きわめて多彩なカメラがあります。

サイズにしても、ロールフィルムだけでも22×31mm(ホベッテ)、24×24mm(テナックス)、
24×36mm(35mm)、3×4cm(ベビー)、4×6.5(ベスト)、4.5×6cm(セミ)、5×7.5cm、6×6cm、6×9cm、6.5×11と、
実に多岐に亘ります。
それだけバラエティーに富み、興味は尽きません。

 

ドレスデンの戦前の
ツァイス・イコンの本社工場。
1921年にエルネマンの本社工場として
建てられたもので戦後はVEBペンタコンの
中核となり、このエルネマンタワーが
ペンタコンのマークとなった。
現在はドレスデン市の技術博物館と
なっている。1999年9月9日撮影。



1936年から37年にかけて新築された
ライカ工場の当時の写真
("75 JAHRE PHOTO-KINO TECHNIK"
1937年ツァイス・イコン刊より)

 

ツァイス・イコン社は二つの世界大戦に挟まれた1926年に発足しました。

ドイツは1913-18年の第一世界大戦に敗れて、連合国側に膨大な賠償金を支払わなければなりませんでした。
戦時中の出費に加えて、賠償金ですから、ドイツの経済は大混乱をきたし、底知れぬインフレに見舞われました。

大会社が次々倒産してゆき、カメラ産業も例外ではありませんでした。

イエナに本社をもつ大手レンズメーカーのカール・ツァイス財団は大いなる困難に直面していました。
カメラメーカーが倒産すると、同社の看板とも言うべき高級レンズ、テッサーの買い手がいなくなってしまうからです。

そこでカール・ツァイスは、ドレスデンのエルネマンイカ、ベルリンのC.P.ゲルツ、シュトゥットガルトのコンテッサ・ネッテル
4社を説得して合併させます。

そして自らも4社分を上回る出資をして、ツァイス・イコンを誕生させるのです。

名称のうち、ツァイスはもちろんカール・ツァイスのツァイスですが、イコンは4社のイニシャルなどを組み合わせているうちに
偶然出来たものだといいます。

西欧ではIkonはicon、即ち聖画にも通じます。

合併した4社はいずれも長い歴史をもち、それまでにも既に何度も吸収合併を繰り返して大きくなった、有力メーカーばかりです。

すべて自らもレンズを制作していましたが、ダゴールやドグマーなどの名レンズをもつC.P.ゲルツ社以外は、高級機には
カール・ツァイスのテッサーを購入して装着していました。

ツァイス・イコンの社長には旧イカ社のエマヌエル・ゴールドベルク博士が就任、旧4社からの6名の役員と、カール・ツァイスからの
3名の監査役で重役会が構成されました。
その中にはコンテッサ・ネッテルからきた、アウグスト・ナーゲル博士もいました。

合併後のツァイス・イコンは、当面旧社名とツァイス・イコンの両方が入ったダブルネームのハンドカメラやロールフィルムカメラを
造っていました。

しかしすぐにナーゲル博士の指揮のもの、蛇腹付きの新しいフォールディングカメラの開発に着手します。

その結果として1929年に発売されたのが、スプリングカメラのイコンタで、次いで1932年にコンタックス、
1934年にスーパーイコンタとイコフレックス・・・と次々と新型カメラを出してゆきます。

この時代のツァイス・イコンは最高の設計技術と生産能力を持つ世界最大のカメラメーカーで、カール・ツァイスの優秀レンズの
バックアップもあって、まさに向かうところ敵無しの状態でした。

優秀なカメラを大量に輸出して外貨を稼ぎ、ドイツの経済復興に尽力します。

 





↑↑↑ライカ工場の設計室。
ハインツ・キュッペンベンダーが
コンタックス | 型を設計したのもこの部屋だ。


ドレスデンのライク工場におけるプレスの模様。→→→


しかし好事魔多し。

第二次世界大戦に敗れると、ドイツは東西に分断され、東ドイツはソビエト連邦の支配下に入り、
西ドイツは米英仏の連合国の管理下に置かれることになります。

不幸なことにカール・ツァイスの本拠地イエナも、ツァイス・イコンの本社工場のあったドレスデンも、東ドイツになってしまったのです。

ソビエト軍は賠償としてツァイス・イコンのコンタックスII、III型の生産施設と、カール・ツァイスのコンタックス用レンズの生産施設を接収、ウクライナのキエフに運んでしまいました。
こうして生まれたのがキエフです。

一方終戦直後の1945年6月、米軍は戦後の混乱に乗じてカール・ツァイスのレンズ技術者84名と、ショット・ガラスの技術者41名を
トラックで西側に脱出させます。

125名は遥か南の小さな村オーバーコーヘンの廃工場に住み着き、レンズの生産を再開します。
彼らは会社名をOPTik ObercocheNから取ってツァイス・オプトンとしました。
その後ツァイス・オプトンは東のカール・ツァイスと商標権を争って法廷闘争を展開、
遂に1953年末に至って”カール・ツァイス”の商標を勝ち取ります。

したがって

●レンズの前枠にCarl Zeiss Jenaとあるのは第二次世界大戦前から1954年にかけてのイエナ製
●Zeiss Optonとあるのは戦後から1953年にかけてのオーバーコーヘン製
●単にCarl Zeissとあるのは1954年以降のオーバーコーヘン製です。


戦後間もない頃のツァイス・オプトン製レンズには、粗末な生産施設や粗悪な原材料ゆえに品質の低いものがあったのは事実です。

しかしその後急速に品質は改善され、戦前のイエナと同水準、あるいは技術的進歩によってそれ以上のレンズが造られるようになります。

例えば1950年から55年まで生産されたコンテッサ35のテッサーは、初めツァイス・オプトン名で、
53年10月1日からカール・ツァイス名になります。

市場では、カール・ツァイス名のものが遥かに高価で取引されていますが、変わったのは名前だけで、改名の前と後で品質に違いは
ありません。




コンタックスII型の組み立ての模様。
カール・ツァイスのレンズを取り付けるべき
バヨネットを調整しているところ。


同じく完成したコンタックスII型のフランジバックを
カール・ツァイス製のマイクロメーターで
検査しているところ
±0.01mmの精度が要求される。

 

一方ドイツの東西分割後、東ドイツの企業がすべてVEB(人民公社)化されることになり、それを嫌ったツァイス・イコンの役員会は
1948年西側シュトゥットガルト工場で同社を存続させる決定を下しました。

シュトゥットガルト工場は戦前からイコンタやスーパーイコンタを造っていたので、まずその生産を再開し、
イコフレックスも復活します。

1950年にはコンタックスIIa IIIaやコンテッサ35が発売され、1953年にはコンタフレックス、1959年にはコンタレックスも生まれます。

戦前の威信を取り戻し、まさに順風満帆のツァイス・イコンでしたが、実はその頃病魔が内部からじわじわと蝕み始めていたのです。
それはひとりツァイス・イコンだけでなく、西ドイツのカメラ産業全体について言えることでした。

ちょうどその頃、ドイツが敷いた線路に乗って、日本製カメラが世界市場に進出し始めていました。

日本はドイツに学んでカメラを造り始めましたが、その頃の日本人の勤勉さによって急速に品質を向上させ、1963年のトプコンREスーパーが先鞭をつけたTTL露出計にみられるような技術革新によって、瞬く間に世界市場を席捲してゆきます。

しかし西ドイツのカメラ産業は自らの力を過信するあまり、日本に負けることなんかあり得ないと悠然と構えていたのです。

そしてある日気が付くと、日本は遥か先を走っていたのです。

1966年、ツァイス・イコンは経営不振に喘ぐもう1つの老舗フォクトレンダーとカルテルを結び、この苦境を乗り切ろうとします。

しかしすべては手遅れでした。

1972年、最後のコンタレックス・スーパー・エレクトロニックを送り出すと、ツァイス・イコンは46年におよぶカメラ生産の歴史に
終止符を打ちました。

それから3年後の1975年、カール・ツァイスとヤシカ、ポルシェ・デザインの3社の協力により、コンタックスが日本製35mm電子一眼レフ
として生まれ変わったのは、ご承知のとおりです。